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三ヶ島開拓史
開拓史
奈良時代の初期、都から遠く離れた東国、武蔵の国の一寒村であった所沢地方は帰化高麗人の集団移住によって高麗群が置かれて以来、いわゆる高麗文化の普及と共に次第に開拓され、後に関東一帯武士の勃興するに及んで、本地方は丹党武人の荘園地となって行きました。
物の本によりますと、南関東の原野に牧場の設置が多く、この管理にあたる武士が至る所で党的な団結を始め、武蔵七党などがその有名なものとされています。
また、近年においては昭和24年頃山林であった「和ヶ原」が開拓され、今日の状況に至っています。
『三ヶ島』由来
地名「三ヶ島」の由来
昔この辺り一帯はススキの原で、その風に揺らぐさまはあたかも大海原を想わせ、このなかにある民家の草葺き屋根が三軒島のように見えたので、「三ヶ島」という地名になったといういかにも昔らしい詩情豊かな伝説が有ります。
ただ残念ながら、今日ではこれらの家名はよく判りません。
建設工事
三ヶ島小学校
明治5年学制発布により、三ヶ島村は「北野村」・「山口村」・「上山口村」と協力して、旧手習い師匠北野村字広谷、沢田新太郎(泉山)氏の塾室(狭山学校)を以って校舎とし子弟を教育を始めました。
その後「妙善院」で寺子屋式授業が行われてきましたが、明治35年に小学校校舎の建設が着手され、同35年春4月に三ヶ島村立として開校されました。この校舎は木造平屋一棟でした。
この小学校こそが、現在の「市立三ヶ島小学校」の前身になります。
