三ヶ島歴史 |
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■開拓史奈良時代の初期、都から遠く離れた東国、武蔵の国の一寒村であった所沢地方は帰化高麗人の集団移住によって高麗群が置かれて以来、いわゆる高麗文化の普及と共に次第に開拓され、後に関東一帯武士の勃興するに及んで、本地方は丹党武人の荘園地となって行きました。
■戦国時代・江戸時代 三ヶ島村元は宮寺郷内(入間市)で宮寺下郷三ヶ島と言いました。此処の長宮社にある正長元年9月23日(1428年)の棟札には、大旦群宮寺惣地頭平朝臣蔵人入道云々とあり、同じく天文23年(1554年)4月21日の棟札には、大旦群宮寺惣地頭豊後入道沙弥芳金とありました。
江戸時代に至っても、その子吉縄は三ヶ島150石を承けました。その他は、久松・武蔵の二氏が承け、また幕府の直轄領もありました。1644〜48年記録によれば、三ヶ島村(枝郷堀之内を含む)高1914石余とあります。(三ヶ島だけで1051石という記録もあります。) ■沢氏
その後は、その子勘七郎吉宗が相続し家康に仕え、大阪冬・夏役にも従いました。元和9年(1623年)8月13日没 35歳。同じく妙善院に葬られました。吉宗は、子供はいなかった為弟から養子をとりました。また、その子も妙善院に葬られています。しかしそれ以降は、妙善院に葬られてはいません。 |
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物の本によりますと、南関東の原野に牧場の設置が多く、この管理にあたる武士が至る所で党的な団結を始め、武蔵七党などがその有名なものとされています。
小田原北条時代に至っては、此処は沢氏の所領でした。沢左京進(次郎右衛門ともいう)吉保は、北条氏康に仕え此処に住んでいました。永禄7年(1564年)下総国府台(千著県市川市)の戦いで従い功績あり、天正6年(1578年)没、此処に葬られました。
沢氏は元上杉氏の家臣で、先祖代々此処の地に住んでいました。一説に三ヶ島妙善院にある五輪の塔の古碑、嘉暦4年(1329年)3月2日了存順麻62歳と刻んであるのは、沢氏先祖の碑だとも云われています。